昭和58年10月18日 月例祭
大祭をあのように盛大に奉仕させて頂きました。ご本部の団参といい、16日の大祭といい、ほんとに金光大神の道の教えが満ち満ちと溢れるような、思いのお祭を拝ませてもらい、奉仕させて頂きましたが、ただ、お祭が済んだ、やれやれ、といったのでは、せっかくの御神意に沿うことにはなりません。この100年祭、今日、お道の信心100年祭を境に私どもの信心も一段と進ませてもろうて、いよいよ金光大神の教えの有難いこと、素晴らしいことを世の人に説うていかなければならんのですが、御大祭の時にも申しましたように、この御大祭を境に、合楽の信奉者が、どうおかげをいよいよ著しいものにしていくかということを、御神誡的、教祖のいわば、み教えというものは、その気になれば誰でも行じ、守ることができる、それをその気になって、私どもがまあまあ稽古をしてまいりましたが、その御神誡を聞くだけではなく、読むだけではなく、自分の血に肉にして、そこから、立教神伝にあるようなご内容を私ども一人ひとりの上に頂き現わしていこうというふうでございましたね。
夕食させて頂いておりましたら、栄四郎(エイシロウ)が奉仕着でやってまいりました。というのも16日の御大祭の後に、青年会の方たちが今度の御本部参拝で、大変打ち込んだ御用をなさいました。赤服を着とる、着とった方たちなんです。が、打ち上げをしとらんから、打ち上げをしようということになったそうです。そしてまあ、打ち上げがでけたのは良かったのですけれども、あんまり嬉しいか有難いか、栄四郎「エイシロウ」がみんなから胴上げされてるんです。そしてあの人が軽かもんじゃから、ぴょーんと飛んでいってから、他んとこさ落ちとる。(笑)それでもうそん時一時は良かったそうですけでも、もう熱が出て震えが来て、体がもうすごく痛くて痛くて、ご飯も16日のその日から「?」、そして今日もご飯もいけん、というような状態で家内がさっそく御神米とお神酒さんを持ってまいりましてね、御神米を何体も何体も痛いところにお神酒さんをつけて湿布するように、ずうっと張ってやって、まあおかげを、それで昼はまあ大変、ご飯もいけないというくらいですから、苦しかったので、まだ苦しんでるだろうと思うておったら、ひょろっともう何でもないようにしてから、おかげを頂いたと。
御月次祭、御用にお使い頂きたいというてお願いに出てまいりました。ほんとに有難い。先ほど、椛目の愛子「アイコ」が参りまして、栄四郎「エイシロウ」さんのおかげ頂いて、もう御用に出てきとるから、あらーあんた、昨日はあげん悪かったつにち言うたら、立教神伝を受けたつもりでちいうて。(感動される)立教神伝を受けたつもりで僕は御用さしてもらうちいうて。それを聞いておりましたら、今日は病院から帰って大変体が疲れておるけれども、月並祭だけは必ずお風呂を頂きますので、お風呂入りましたら、ぐったりなってきつかったんですけれども、それを聞いた途端にね、はあ、口で言うだけじゃないんだと。100年祭を境に合楽の信奉者の一人ひとりが、いつでもどんな場合でも立教神伝を受けたつもりで信心をさせて頂くことになったら、どういう素晴らしいことになるだろうかと思うて、思わず元気が出て、今日もこうしてお祭を拝むことがでけました、ね。
今日はちょっと忙しございますけんで、それこそ死んだと思うて欲を放してと天地金乃神様が教祖金光大神に神頼みになられたように、あたくし共が、あたくしを中心じゃなくて神様を中心に、私本位の信心から神様本位の信心にならせて頂く、ね、言い訳がいりません。ほんとに一人ひとりがこの立教神伝を受けたつもりでというように、変わらして頂くということが、この100年祭を境に合楽の信心が一段とまた輝きを増すことになるのですし、また、おかげを受けることにもなるのです。
今年は元旦に合楽のいうなら節、大きな節から枝が出て芽が出るぞ、というお知らせを頂いておりましたが、今年はここで修行しました、6年7年、修行した先生方が次々と合楽理念をもとに、合楽理念を引っ提げての布教に渡らせて頂くようになりました。先だって、御大祭の日も、箱崎教会の佐田「サダ」先生が親子4人、それにご親戚の方たちまでいっぱい同道で、あたくしの部屋に挨拶に出てまいりました。ほんとにもう、おかげを頂いて、合楽理念に基づく布教ができておる有様を聞かして頂いて、もう感動いっぱいでした。
御承知のように、南米からは末永(スエナガ)先生が今帰ってきております。お説教の中にも申しておりましたように、ね、小型ながらも打ち出の小槌を持たせて頂いておるかのように、ね、それは小さいものではありましょうけれども、必要なものが必要に応じておかげの頂けれる、なんというても、もう合楽理念を持って自他共に助かっていく手立てをいよいよ深めていかなければならないというふうに申しておりましたように。
今日は、坂根(サカネ)先生親子3人、修行を終えてお教会のほうへ帰らせて頂きます。今日は、総代さんの永瀬(ナガセ)さんがお父さんになりますから、送っておいでておられます。申したことでございますけれども、ちょうど栄四郎(エイシロウ)が大祭の日に、そうしたまあ怪我をするようなことになったが、神様にいち早くそのことを御取次ぎをさせて頂きましたら、御神眼にひょうたんを頂いたんです、ひょうたん。これはお神酒を入れるものなんですけれども、また、ね、ひょうたんばかりが浮きものか、私の心も浮いてきた、というような言葉の囃子詞がね、ございますように、ね、浮いた浮いたというそれが、ね、慢心とまではいかんけれども、やれやれ御大祭がすんだ、さあ一杯飲むぞ、さあ一杯機嫌でその浮いた浮いたが、こういうお気付けを頂かなければならないことになる。
坂根(サカネ)先生、合楽理念をもって、ね、あんたが合楽で体得した、それをお教会の上に頂いていったら、もう絶対必ず御ひれいを受けることができるぞ。ただしね、油断をするなと、いわゆる浮いた浮いたという気になるな、と。少し助かってくると、もういかにも自分の力で助かったような思い上がった思い方でもするな、ね、お気付き、いうなら痛い思いをしたぐらいですめば良いけれども、それでも気がつかんと、いわゆるそれが慢心ともなっていよいよ大怪我のもとになるぞと。
合楽理念をもって帰る限り、もう絶対おかげが頂けるじゃろうけど、頂いたおかげが、ね、ただ信心の不調法というか、油断からおかげを取り落とすようなことがあってはならんぞと、このことを繰り返し申さしてもらいまして、先だってから頂きました、ね、救われる身より救う身になれ、ね、これはまあいわゆる、ほんとに立教神伝を受けたつもりでなからなければ、できることではありませんけれども、そこには人を助けて吾助かるという、不思議な不思議な働き、ね、人を助けて吾助かるという助かりは、もうそれそ夢にも思わなかったようなおかげが展開してくるのです。
そういうおかげを頂いたとき、初めて天地金乃神様がお喜びくださり、金光大神がこの世に出現された本当の意義があるわけでございますから、ね、私どもが金光大神に神頼みを受けておる、受けたんだというような、決心をして、ね、今日の栄四郎(エイシロウ)の言葉じゃないけれども、ね、1にも神様、2にも神様、3にも神様、これはあたくしの昔からのあたくしの流儀なんですけれども、そういうことが、ね、それこそ死んだと思うて欲を放し、神様に頼まれておる自分というような自覚から、それが有難くできてくる。
今日は忙しかことは神様も知ってござるけんでと、よくそんなことを申しますけれども、これはまあ、今までの信心はそれでも良かった、ね、けれどもこれからの合楽の信心は、一人ひとりが合楽理念に基づくその合楽理念の内容が、ね、立教神伝を受けておる、神様にそういう期待をかけられておる私どもであるということを、再認識して、ね、真の信心に進んでいきたい。そしていわゆる真のおかげを頂きたいと。
真のおかげの中には、どうぞどうぞというて願うておったぐらいなことではない。それこそ夢にも思わなったような、ね、いわゆるおかげの展開こそ、天地金乃神様を現すことになるのであり、金光大神へのお喜びを受けることにもなるのです。いわばあたくし共もまた、それこそ有難い勿体ないの生活がでける。神も喜び氏子も喜び金光大神をもの喜びじゃ、と。金光教の信心はこの3つがね、いわば喜びおうていけるようなおかげ、ね。
おかげを頂いて有難やという、その有難いというのは、内容が勿体ないでなからにゃならんということをこの頃申しました、ね。信心もでけませんのに、かくおかげを頂いて勿体ない。有難いというのは、どういう修行に直面いたしましても、それを、ね、真正面から、それこそよっつに難儀と取り組んで力がでけてくる、神様の心がより深く分からして頂くことが有難いという時、初めて有難いんだというふうに申しました、ね。
信心のない人や薄い人は、困ったこと、お願いして思い通りにおかげ頂いたら、おかげ頂いて有難い、これは有難いに違いないけれども、なら受け物もなしに頂くのですから、これは勿体ない、勿体ないおかげを頂いて。そして今まで思うておった難儀、困ったこと、嫌なことだと思うておったことの中に神愛が満ち溢れておる、ね。そういういうならば、自分の思うようになることだけが有難いのではなくて、それとは反対のことが例えば続きましても、ね、それを有難く受けられる信心をこれから求めていきたい。
あたくしは今日、栄四郎(エイシロウ)の言葉であたくし自身、元気が出ました。「?」いよいよの時に、あ、ここだな、ここが立教神伝を受けたつもりでというような頂き方ができるようになったら、ね、ほんとの金光様のご信心を頂いておる値打ちというものが、そこから発揮されると思うです。
この月の30日は、親教会の初代教会長(アラマキユミジロウ)の50年の式年にあたります。50年です。ほんとに私は思うておりますけれども、ほんとに合楽からそうした自分の我情を捨てて我欲を捨てて、その日だけは、ね、おかげで今日合楽にこれだけのおかげ、ごひれいを受けることがでけたという、御霊様へのお礼の参拝をあたくしも、まあお参りさせて頂きたいと思います。皆さんも今から心づもりをしておいて下さい。まだ23日の月並祭もあるし、と思うたけども、たびたびこの事は皆さんに聞いて頂いて、50年の式年祭をいよいよ有難い霊祭として頂きたいというふうに思うておりますから、どうぞよろしくお願いいたします。
どうぞ皆さん、立教神伝をもう一遍、もう一遍じゃない、ひとつ繰り返し読んで、ね、神も助かり氏子も立ち行く、あいよかけよで立ち行く世界に住まわせて頂くような信心にならせて頂きたいと思います。どうぞ。